小児科医の医者冥利に尽きます(2)~3月3日
3月3日午後6時に○○千尋様が来院されました。父が千尋様のお母様に送った手紙を持参され、拝見させていただきました。『』は父からの手紙の引用です。
『先日はわざわざお手紙をいただき、恐縮に思っております。単に医者として当然務めなければならない事のみを行っただけですのに身に余るお言葉を拝し、なんだか恥ずかしさで一杯です。皆様にお喜びくださいましたことが眼前に浮かび、嬉しさがこみあげてまいります。まだまだこれから修練を積まねばならない私にとってはこの上ない励みの糧になるだろうと確信しております。』
1952年(昭和27年)千尋様のお父様のご実家である津市に帰省された時に疫痢を発症され、私の父が千尋さんの入院主治医になったようです。その後、回復され、東京へ戻られて、そのお礼への手紙への返信と思われます。父は1949年(昭和24年)三重県立医学専門学校(現在の三重大学医学部の前身)の一期生として卒業。その後小児科入局し、医師になって3年目の担当症例が千尋さんであったようです。
『思えば東京と津、同じ市とはいえ、文化の程度も差があろうと思いますし、医学の面でも東京のそれと当方とは差があろうと思います。手に創傷を作らなくても済んだかもしれませんのに治療のためとはいえ、千尋様の手に人工的に創傷を作らねばならなかったことは私にとって考え込ませることの一つです。早く医学の進歩が図られてこんなことをしなくてもよいように医者である(頼りないのですが)私もいつも祈り続ける次第です。』
<少し捕捉します>
疫痢の治療には点滴療法が必要で当時は現在のような良い点滴用の針などなく、患者さんの皮膚にメスで切開を入れ静脈に太い針を挿入し持続点滴をしたと思われます。点滴用の製剤も1960年代になって、製品化されたようで1950年代の当時は生理的食塩水を使ったと思います。また、当時の大学病院本院は塔世川沿いの現在の三重県警本部の場所にありましたが、千尋さんは伝染病病棟(隔離病舎)に入院されたと思います。本院とは別の現在の県立美術館のあたりに隔離病棟はあったと記憶しています。